学生の学習意欲ーゼミ生のやる気がないー

ゼミ生のやる気がない

 

教授も学生も等しく悩むであろう問題に出会った。筆者は今年の春から大学のゼミに所属したのだが、いかんせん学生のやる気がない。教授も教授である。このやり方だと学生が真面目にやらないな、と想像するに難くない授業形式をとっている。教育意欲のない人ではないのに不思議なものだ。

 

まず、学生は課題図書を読んできてくれ…全く読まないでブックレビューを参考にしたり、最初と最後だけ読んで平然としていたり、と彼らが何のためにゼミに所属したのか不思議に思う。

教授も質の低い発表を聞くその時間は苦痛であろう。現状を良くするために、せめて発表に対するレビューはもっとちゃんとやってほしい。真面目に資料を作った人のモチベが下がる。これがとある有名大学(自分で言うのもなんだが)で起きていることに頭が痛くなる。

 

このようなことを書いたが、あきらめたわけではない。ゼミ生と仲良くなって長期的にゼミを改革するつもりだ。最低限、課題図書を読んでくるのが常識になるようにしたい。改革に失敗して、心が折れても自分一人で勉強は続けよう…

国立西洋美術館の感想ー静物画と宗教画についてー

木曜日に国立西洋美術館に行ってきました。キャンパスメンバーズという制度を利用すると対象の大学関係者は無料で常設展に入れるのでありがたいです。今回は国立西洋美術館の感想を書きます。

 

館内に入って最初に見たのは宗教画と静物画でした。この二つが一番のお気に入りでした。静物画の良いところは見ると頭がすっきりするところです。静物画はキャンバス内で完結していて、それより外の世界がないように感じました。描かれているテーブルや上の物がどこに置かれているのかイメージできなかったのです。そのため、余計なことを考えずに絵を楽しめるので頭がすっきりするように思えたのでしょう。

宗教画は東洋との違いが如実に表れていて面白いと思いました。特に聖母マリアや天使の目を見るとその違いがはっきりしていました。以前、鎌倉の覚園寺の仏像を近くで見たのですが、その時、仏像の目を見て超人的な慈悲というものを覚えました。あの目を描いた人はいったいどのような感性を養ったのだろうと感心しました。私にはできない。一方で西洋の宗教画は良くも悪くも人間的でした。キリストを失う運命を嘆いて泣く聖母マリアの絵も、祈りをささげる人のもとに来た天使の絵も精緻で素晴らしかったです。しかし、どうしても人間的なのです。東洋的な価値観の人間のためどうしても違和感を感じてしまった。聖母マリアの目も天使の目も作者の人間的な感情が現れているように感じました。そこが仏像とは違っているのです。やはり仏像の目を見ている方が私は落ち着きます。

 

 

 

構成の巧妙さに満ちた感動作『4月になれば彼女は』

今回は2024年春公開の映画『4月になれば彼女は』の感想です。(後半ネタバレ注意)

 

映画『4月になれば彼女は』の原作は川村元気の小説で「10年にわたる愛と別れを、壮大なスケールで描いた心に刺さるラブストーリー」である。(公式ウェブページより映画『四月になれば彼女は』公式サイト (toho.co.jp)

この映画は構成がしっかりしていて良い。主題が首尾一貫していて、その描き方も丁寧だ。最近の映画や小説は、良いことを言っているから良い作品だろう、などと思って主題を箇条書きするものが多いが『4月になれば彼女は』は違う。主題が一貫していて、一見矛盾しているように見えてもそれは最後の主題の提示に向けた過程に組み込まれている。伏線も丁寧に回収されていて、最後まで見ないと伏線だと気が付かないような巧妙な張り方をしている場所もある。

ただし主題や構成そのものはありきたりである。そこに新奇性はないため過度に期待してはいけない。とはいえ、陳腐ともいえる主題や構成で全体として質の高い作品になっている。108分が有意義に感じる作品であり、見るべきだ。

 

以下ネタバレ注意

 

 

 

 

 

この映画の問いは『愛とは何か?』であり、答えとなる主題は『愛とは相手を知ろうとすることだ』である。ここでは問いの展開と主題の厳密な提示について述べたい。

まず、問いの展開について。①序盤で弥生(長澤まさみ)は『手に入れられない愛は美しい』というようなことを思っており、偶像的な愛というものを考えている(これ自体は中盤終わりの回想でわかる)。一方、藤代(佐藤健)の愛についての考え方は明確にされていない。➁弥生が失踪したあと、弥生と藤代は愛とは何かについて考える。面白いのはその過程で関わる人々は『愛とは何か』という問いの答えを『愛とは相手を知ろうとすることだ』と知っていたのではないかということだ。バーのマスター(中野太賀)や養護施設の老婆もこのことを半ば明示的に弥生と藤代に対して示しているように思える。➂終盤、二人は愛とは何かを知る。最後は藤代が弥生のもとを訪れてハッピーエンドということだ。

ここまで読んでわかるように内容は陳腐の一言である。落ち着くとことに落ち着いた感があって少々不満に思ってしまう。しかし、この作品の素晴らしい点は構成である。問いの展開が『愛とは相手を知ろうとすることだ』という主題の背骨をもって進んでゆく。映画の序盤では、愛を愛するではないが、偶像的な愛しかこの世にはないのだという悲劇を予想した。しかし、終盤では『愛とは相手を知ろうとすることだ』という主題が明確に提示される。ここに矛盾を感じてしまう。それはこの作品が登場人物の心情変化をはっきりと描かないからそう思えるのであって実際には心情変化が起きているのだ。心情変化を踏まえるとこの作品はなんら矛盾しない。映画館で上映後、「なんかよくわからなかったねー」という声が聞こえたが、この一貫性に気付いてほしいと傲慢ながら思ってしまった。

次に、主題の厳密な提示について。この作品の主題は『愛とは相手を知ろうとすることだ』であって『愛とは相手を知っていることだ』ではないことに着目してほしい。つまり、進行形で相手に踏み込み、寄り添おうとする姿勢が愛なのであって、相手を知っているという状態は愛ではないということなのだ。このことを映画では繰り返し主張している。例を挙げると、中盤終わりに養護施設で弥生が働いており、弥生が老婆に「素敵ですね」というシーンがある。(余命宣告された老婆と夫は別々に暮らしていて、夫が老婆に会いに来ていた。その夫が自宅に帰るときに老婆と夫が手を振りあっていたシーンがある)その時に老婆は手元の写真を見ながら、「夫がこんな表情をするとは知らなかった。50年以上連れ添っても知らないことだらけだ」というようなことを言っている。他には、序盤に弥生が「愛が冷めないための方法は何か?」と洗面所で藤代に聞き、対して藤代は「何それ?なぞなぞ?」と返している。この質問に対する答えは中盤終わりに「愛を冷めないようにする方法は愛を手に入れないことだ」と藤代の回想シーンで提示される。ここで大事なのは質問の答え自体ではなく、藤代が弥生を知ろうとしていなかったことを暗示していることだ。物語が進んで愛とは何かということに気づき始めた時、弥生が昔言ったことを思い出したのだ。一つ目の例は弥生が、二つ目の例は藤代が『愛とは相手を知ろうとすることだ』という答えに至る伏線になっていたのだ。その他にも上映後に伏線だったと気づいたシーンが多くある。特に一つ目の例のシーンは際立っている。

結論として、構成が非常に整っていて、作品を主題が一貫する稀有な作品であることは間違いない。

ちなみに送葬のフリーレンを読んでいなかったらこの映画の良さに気づけなかったであろう。どこから着想を得るかわからないものだ。

2024年3月22日モスクワにおけるテロへの懸念

2024年3月22日、モスクワでコンサート会場銃乱射事件が発生し、3月25日の時点で137人が死亡するという事件が起きた。このテロを起こしたとしてISが犯行声明を出している。

日経新聞(2024年3月27日朝刊)によるとこの事件を受けてロシアではアジア系のムスリムに対する排斥感情が高まっているという。今回の事件に関連して筆者が懸念しているのはマイノリティーの社会的な分断が加速することである。

 

筆者はマイノリティーが社会から分断されることそれ自体よりも、その分断がさらなる破壊的行為を誘発する可能性を懸念している。そもそも今回テロを起こしたのはISというムスリムのマイノリティーであり、彼らはスンニ派との対立を深めることでアイデンティティを確立している。現状変革を望む少数派がしばしば用いる手として社会を分断し、対立を煽ることが挙げられる。ISに限らず共産主義者も同様の手口を用いており、彼らは理念のためなら暴力も辞さないという恐ろしい性質を共有している。

今回のテロを受けてISが社会的にさらに排斥されるのは当然かもしれない。しかし、前述の通りISはムスリムのなかでもごくわずかな人しか加入していない。その他大勢のムスリムイスラームが主要な宗教でない国や地域で迫害されることがあってはならない。現状変革の手段として公然と暴力を支持する人々は社会を分断し、対立を煽り、憎悪をまき散らす。今回のテロによって、無関係なムスリムがロシアやイスラーム非主流地域で迫害されるようなことが起きれば、ISや暴力的革命を望む人々は暴力行為に味を占める。そして、迫害された無実の人々の心に社会への憎悪が生まれてしまったらそれこそ思う壺であろう。人々を集団として考えるのではなく、個人として見ることを今一度思い出してほしい。